半導体の設計現場で、道具そのものではなく、道具を動かす土台の値段が跳ね上がっている。仕掛けたのは2件の企業買収で、日本の設計会社は支払う側に回った。逃げ道として挙がる1つは、まもなく売られなくなる。
回路の設計者が向き合っているのは、画面の中の配線と、その画面を遠くの計算機から手元へ運んでくる仕組みの2つである。前者は設計自動化の道具が担い、後者は仮想化と画面転送の基盤が担う。この2年で値段が動いたのは後者だった。
きっかけは2件の企業買収である。ブロードコムは2023年11月22日、VMwareの買収を完了した。金額は現金610億ドルに債務80億ドルの引き受けを加えた約690億ドル。シトリックスはそれに先立つ2022年9月30日、ビスタ・エクイティ・パートナーズとエバーグリーン・コースト・キャピタルによって165億ドルで買われ、TIBCOと統合してクラウド・ソフトウェア・グループになった。仮想化と画面転送という、設計室の土台を担う2つの製品系列が、相次いで投資会社と半導体会社の手に渡った。
そのあとに起きた条件変更と、実際に企業へ届いた請求額を、公表資料と訴状で確かめる。
買収の後で変わったのは、道具ではなく数え方だった
条件の変更は3段階で進んだ(本稿の図1)。
図1 — VMwareとシトリックスの買収額、その後に告知された契約条件の変更、そして訴状に記された年1,050%という更新条件
第1段は2024年2月、ブロードコムがVMwareの永久ライセンスを廃止し、全商品を期間契約のみに切り替えた。買い切って使い続ける形が消え、契約期間が切れれば修正の適用も保守も止まる。既存の永久ライセンスと保守契約は期間内は有効だが、期間の終わりが更新の交渉の期限になる。
第2段は品目の集約である。VMwareが持っていた約8,000の品目と168のまとめ売りが、4つの束へ整理された。VMware Cloud Foundation、vSphere Foundation、vSphere Standard、vSphere Enterprise Plusの4つである。必要な機能だけを選んで買う経路が消え、束の単位で買うことになった。
第3段が2025年4月の請求単位の変更で、これがいちばん効いた。1回の購入における最低の請求単位を、16コアから72コアへ引き上げると告知された。20コアのサーバーを1台動かしていても72コア分を請求される計算になり、小規模な構成では2倍から3.5倍の増加が生じる。この72コアの最低は反発を受けて撤回されたが、告知から撤回までの期間に更新を迎えた企業は、この条件で交渉に臨むことになった。
設計者の側から見れば、作業の中身は何も変わっていない。同じ機械で同じ道具を動かしている。変わったのは請求の数え方だけである。
訴状に残った1,050%という数字
値上げ幅について「数倍」という表現が広く流通したが、具体的な数字が公的な記録に残った例が1件ある。米AT&Tが2024年8月29日、ニューヨーク州最高裁にブロードコムを相手取って起こした訴訟である。
同社の主張によれば、2022年8月に結んだ契約の変更によって保守は2024年9月8日まで続き、さらに2年の延長を選べる約定になっていた。ブロードコムによる買収の後、同社は新たに設けられた期間契約の商品を購入しない限り保守を続けないと通告された。この期間契約は3年の縛りがある。そして提示された更新条件は、年間で1,050%の増額だったと訴状は記す。
対象となる規模も記録に残った。8,600台のサーバーで動く75,000台の仮想機械である。保守の打ち切りは2024年9月8日と通告された。この訴訟は同年11月に非公開で和解している。
1,050%という数字は、和解によって法廷での判断は下されなかったものの、提示された条件として書面に残った具体的な数値になる。他の企業でも更新時に5倍から10倍超の提示があったと報じられているが、公的な記録に残る数字はこれである。
設計の現場で、なぜ画面転送が問題になるのか
ここで技術の側を押さえておく必要がある。事務の仕事で使う画面転送と、設計で使う画面転送は要求の水準がまったく違う。
論理合成や配置配線といった設計自動化の処理は、数百のコアと数百ギガバイトの記憶領域を占有して何時間も走る。この規模の計算機を設計者の机に置くことはできないため、計算機は中央の設備に置き、画面だけを手元へ運ぶ形になる。設計データを手元の機械に置かない構成は、機密の保護という点でも要請される。
問題は遅延である。画面転送の仕組みは、遠くの計算機で描いた画像を圧縮して送り、手元で展開して表示する。この往復に必要な時間が、操作の手応えを決める。回路のレイアウトを拡大しながら配線をたどる作業では、1回の操作に対する応答が100ミリ秒を超えると、設計者は待たされている感覚を持つ。文字を打つ仕事なら気づかない差が、図形を動かす仕事では作業速度に直結する。
遅延の内訳は3つに分かれる。物理的な距離による往復の時間、画像の圧縮と展開にかかる時間、そして描画そのものにかかる時間である。1つ目は光の速さで決まるため技術では縮められない。東京と東南アジアの間なら往復で数十ミリ秒が加わり、これだけで手応えの余裕が半分近く消える。2つ目と3つ目が製品の差になる部分で、画像の変化した部分だけを送る、文字と図形で圧縮の方式を変える、GPUの符号化機能を使うといった工夫が積まれている。
設計の分野で使われる道具の多くはLinuxの上で動き、X11という古い描画の仕組みを前提にしている。この仕組みは1回の描画に多数のやり取りを伴うため、そのまま遠くへ運ぶと遅延が積み上がる。設計に特化した画面転送の製品が別に存在するのは、この描画の癖に合わせた作り込みが要るためである。
逃げ先として挙がる選択肢のうち、1つは店じまいに入っている
移行先として名前が挙がるのは、画面転送ではアマゾンDCV、オープンテキストのExceed TurboX、HP Anywareの3つ、仮想化の土台ではNutanix AHVやKVM系の製品群である。この4つを公表資料で確かめると、1つは選べない状態にある(本稿の図2)。
図2 — 代替として挙がる4つの選択肢の現在地と、ブロードコム・Nutanixの決算、そして日本のデジタル関連の赤字と設計会社の研究開発費
HP Anywareは、もともとテラディシ社のPCoIPという技術で、HPが2021年に同社を買収し、2022年にHP Anywareの名前で自社の製品群へ統合したものである。高精細な図形の描画に強く、設計や映像の現場で使われてきた。
そのHP Anywareについて、HPは販売終了の告知を出している。HP Anyware、Trusted Zero Clients、Anyware Trust Centerの販売を2026年5月7日に終える。更新の購入は2027年10月31日まで可能だが契約期間は最長1年で、その保守は2028年10月31日に終わる。Anyware Trust CenterとTrusted Zero Clientsの保守は2026年10月31日で終わり、それ以降は設定と障害の切り分けのみで修正の提供はない。Desktop Access向けのTera2 Zero ClientsとPCoIP Management Consoleは2029年12月31日まで、全体の保守は2029年10月31日までである。
VMwareの値上げから逃れる先としてHP Anywareを検討するのは、2026年の時点では新しい行き止まりへ向かうことになる。移行には設計環境の検証だけで数か月、全体の切り替えに1年から2年を要するのが通例で、2026年5月の販売終了は、いま検討を始める企業にとって間に合わない期限になる。
残る選択肢のうち、アマゾンDCVは設計の分野で事実上の標準に近い位置にあり、追加の費用を抑えて導入できる。オープンテキストのExceed TurboXはLinuxの描画に特化した作りで、設計現場での採用が増えている。仮想化の土台ではNutanix AHVが代表的な移行先になる。
値上げの行き先と、乗り換えの受け皿を決算で追う
払われた金がどこへ行き、乗り換えで誰が潤ったのかは、米証券取引委員会への提出書類で確かめられる。
ブロードコムの2025年11月期の売上高は638億8,700万ドル。VMware買収前の2023年10月期は358億1,900万ドルだったから、2年で78.4%増えた。営業利益は254億8,400万ドルで営業利益率39.9%、粗利率は67.8%である。買収の翌期にあたる2024年11月期は買収に伴う費用で営業利益が134億6,300万ドルまで落ちたが、そこから1年で2倍近くまで戻した。基盤ソフト部門の売上は四半期あたり66億ドルから69億ドルの水準で推移し、前年同期比で17%から25%の伸びが続いている。上位1万社の顧客のうち9割超が新しい束の商品へ移ったと同社は説明する。
乗り換えの受け皿にあたるNutanixの2025年7月期の売上高は25億3,800万ドルで、2年前の18億6,300万ドルから36.2%増えた。営業利益は1億7,300万ドル、純損益は1億8,800万ドルの黒字で、通期の黒字は初めてになる。粗利率86.8%はブロードコムの67.8%を上回るが、売上の規模は25分の1にとどまる。乗り換え先として名前が挙がっても、受け止められる量には差がある。
日本側の勘定 — 6兆6,507億円と、売上の3割を設計に注ぐ会社
日本の企業が海外のソフトウェアへ払っている額は、国際収支の統計に現れる。財務省が2025年2月10日に発表した2024年の国際収支状況によれば、デジタル関連の収支は6兆6,507億円の赤字で過去最大となった。内訳のうち「通信・コンピューター・情報サービス」が前年比54.4%増の2兆4,941億円と、赤字の広がりがいちばん大きい項目になっている。2025年1月から6月の半年でも3兆4,810億円の赤字が出ている。2014年と比べると計算機の役務は約3.3倍、専門・経営コンサルティングは約5.4倍に膨らんだ。
この国全体の数字の中に、設計現場の基盤ソフトの値上げも含まれている。個別の内訳は公表されないが、赤字を広げた項目の性格と、この2年に起きた契約条件の変更の向きは一致する。
払う側の企業を金融庁のEDINETに提出された有価証券報告書で確かめると、設計に金を割いている会社ほど影響を受けやすい構造が見える。ソシオネクストは2026年3月期の売上高2,008億3,400万円に対し研究開発費585億800万円で、売上の29.13%を研究開発に充てている。営業利益率は6.15%にとどまる。設計を売り物にする会社の費用は、人件費と設計自動化の道具の使用料、そしてそれを動かす計算設備で構成される。基盤ソフトの値上げは、この29.13%の中身を直接押し上げる。
ルネサスエレクトロニクスは2025年12月期の売上高1兆3,212億1,200万円、研究開発費2,403億円で比率18.19%、営業利益率15.23%。設備投資は576億円である。大塚商会は2025年12月期の売上高1兆3,227億9,100万円、営業利益率6.80%で、こちらは基盤の入れ替え作業を請け負う側に立つ。移行の需要は日本の情報サービス会社にとっては仕事の増加になるが、その原資は顧客の予算から出る。国内で完結する取引が増えるわけではない点に注意が要る。
設計自動化の道具そのものの産業構造については設計ツール30社を資本関係で読み替えた記事で扱った。道具の側でも供給者の統合が進んでおり、道具と土台の両方で交渉相手が減っている。
拠点を動かすと、遅延と保護の両方が同時に要る
設計拠点を中国から日本や東南アジア、インド、北米へ移す動きは、この費用の問題と同時に進んでいる。輸出管理の強化によって、設計データや半導体の設計資産を国外へ持ち出す条件が厳しくなったためである。
拠点を分散させると、機密の保護と応答の速さという2つの要求が正面から衝突する。設計データを各拠点の機械に置けば応答は速くなるが、持ち出しの管理ができなくなる。中央に置いて画面だけを送れば管理はできるが、距離の分だけ遅延が乗る。この矛盾を解く道具が画面転送の基盤であり、だからこそ値上げの影響が大きい。代わりが利かない位置にある道具ほど、値づけの自由度は売り手側にある。
現実的な設計としては、計算機を地域ごとの拠点に置き、設計データはその地域の中に留め、拠点間では設計の成果物だけを管理された経路で受け渡す形が採られる。この構成では地域ごとに計算設備と基盤ソフトの契約が要るため、拠点を分散させるほど契約の数が増える。請求の最低単位が引き上げられる変更が効くのは、まさにこの小さな拠点である。72コアの最低が小規模な構成で2倍から3.5倍の増加を生むという計算は、拠点分散を進めている企業に直接あたる。
見ておくべき3つの数字
投資家がこの流れを追うなら、決算と告知に出る数字を3つ押さえておけばよい。
第1に、ブロードコムの基盤ソフト部門の売上の伸び率である。四半期で17%から25%という水準が続くうちは値上げが通っている。伸びが1桁に落ちれば、顧客の移行が進んだ合図になる。第2に、Nutanixの売上の伸びと利益の定着である。2025年7月期に初めて通期の黒字を出したが、乗り換えの需要をどこまで取り込めるかはこの先の数字に出る。第3に、日本のデジタル関連の赤字と、その中の「通信・コンピューター・情報サービス」の伸び率である。前年比54.4%という増加が続くのか、円相場の影響を除いても膨らむのかは、国内企業の交渉力を測る目安になる。
値上げの通告を受けた企業が選べる道は、払うか、移るか、抱える範囲を減らすかの3つしかない。どれを選んでも費用は出る。設計自動化の道具が高価なことは以前から知られていたが、それを動かす土台の値段が交渉の対象になったのは、この2年に起きた新しい事態である。
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