官民ファンドの運用期限は2050年3月末まで延びている。それでもJSRの売却話が進むのは、買収のときに組んだ借入れ3,763億円の満期が2031年に来るためだ。1兆円超という値段は、買い手2社が掲げる財務の目安を大きく踏み越える。
半導体材料大手のJSRを傘下に持つ産業革新投資機構が同社の売却を検討し、最終候補に三菱ケミカルグループと三井化学が残ったと、複数の関係者の話として2026年9月18日に報じられた。2社はそれぞれ1兆円を超える価格での買収を検討しているという。機構側は2社が示す金額と条件を見たうえで最終的な売却先を決める。三菱ケミカルグループと機構の広報はコメントを控え、三井化学は同じ日に「当社が発表したものではない」と開示した。入札が何回目なのか、外れた候補がどこか、いつ決まるのかは報じられておらず、本稿の時点で未取得である。
読者から届く問いは単純で、どちらが買うにせよ買収は避けられないのか、というものだ。JSRの有価証券報告書と買い手2社の決算資料を突き合わせると、避けられないのは買収そのものではなく、機構が2031年までに出口を決めることのほうだと分かる。そして1兆円という金額は、どちらの会社にとっても借入れだけでは収まらない。
売却を迫っているのは機構の期限ではなく、2031年に満期が来る3,763億円の借入れである
産業革新投資機構は期限つきの組織だが、2024年の産業競争力強化法の改正で運用期限は2034年3月末から2050年3月末へ延びた。機構そのものに、いまJSRを手放さなければならない事情はない。2023年6月26日に公開買付けを公表したときの資料も、出口は「再上場を行うことを基本方針」と書いており、事業会社への売却は挙げていなかった。当時の社長だったエリック・ジョンソン氏は、再上場の時期を5〜7年後と話している。
期限を作っているのは借入れである。機構の子会社は1株4,350円でJSR株を2024年3月19日から4月16日まで買い付け、84.36%を取得した。報道が約9,000億円と書く取得対価は、有価証券報告書では9,038億7,300万円で、JSRは2024年6月25日に上場を廃止した。資金の内訳を有価証券報告書でたどると、機構のファンドによる株式の引受けが5,347億6,500万円、普通株の追加出資が3億円と120億円、みずほ銀行と日本政策投資銀行が100億円ずつ引き受けた優先株が計200億円、そして2024年4月22日に2,200億円、9月27日に1,400億円の借入れである。買収される会社の資産と収益を返済の裏づけにする、いわゆるLBOの形をとった。
2026年3月末の残高は、返済順位の高いシニアローンが2,840億円、順位の低いメザニンローンが923億円で、合わせて3,763億円になる。弁済期限はシニアが借入から7年、メザニンが7年6か月で、どちらも2031年から2032年3月までに来る。借り換えで先へ延ばす道も狭い。優先株の条項が、借り換え後の満期を優先株の払込期日である2024年4月22日の7年6か月後より先に置くことを認めていないためだ。つまり2031年10月が天井になる。長期借入金の平均利率は3.53%である。
借入れには財務制限条項も付く。2026年3月期以降の各期に、連結で当期損失を出さないことが求められている。買収に伴って計上した無形資産の償却など一定の費用は計算から除かれるが、赤字を出せば貸し手に主導権が移る。JSRは2025年3月期に、ライフサイエンス事業ののれんを中心に1,575億9,700万円の減損を計上し、親会社帰属の当期損失は2,175億1,300万円に達した。条項が効き始める1年前のことだった。
2026年3月期の黒字593億円のうち、続ける事業が稼いだのは18億円だった
条項の初年度にあたる2026年3月期、JSRは売上収益4,407億1,800万円、営業利益405億2,800万円、親会社帰属の当期利益593億2,900万円を計上した。数字だけ見れば立ち直りである。ただし内訳は違う景色を見せる。継続事業の当期利益は18億1,800万円にとどまり、589億2,700万円は非継続事業、つまり売った事業の利益だった。体外診断薬事業をトクヤマへ譲渡して806億3,700万円、バイオプロセス材料を独メルクへ譲渡して75億9,500万円を受け取っている。売る事業が尽きた後に、続ける事業だけで黒字を保てるかが次の関門になる。
本業は伸びている。半導体材料とディスプレー材料を束ねるデジタルソリューションは、売上収益が16.9%増の2,521億4,200万円、営業利益は前の期の178億1,400万円から557億300万円へ3倍になった。2025年度上期の半導体材料の売上高は904億円で17%増えている。足を引いているのはライフサイエンスで、営業損失は175億7,100万円だった。合成樹脂の営業利益は32億1,800万円である。会社は2030年までにコア営業利益1,000億円を目標に置く。
純有利子負債は3,433億円で、1年で1,228億円減った。それでも堀哲朗社長は2026年5月、買収借入れの解消に「早くてもあと1年かかる」と述べている。同じ社長は1月に、業界再編を「主導できる立場にない」とも話した。2023年にジョンソン氏が「半導体材料の再編の主体はわれわれだ」と語った構図は、2年で入れ替わった。再編の主役として非公開化した会社が、再編される側に回って出口を迎えようとしている。機構が掲げた買収目的、つまり業界再編の主導は、JSRが買うのではなく買われる形で果たされることになる。
機構の瀬口二郎社長は2026年6月26日の就任会見で、売却か再上場かは「現時点で意思決定はしていない」と述べた。売却の検討を最初に伝えた2026年5月28日のロイターの報道では、関心を示す会社は富士フイルムホールディングスと三菱ケミカルグループだった。4か月後の報道では富士フイルムの名が消え、三井化学が入っている。
1兆円はJSRの純資産の2.46倍で、機構の投下額に対しては1.20倍から1.83倍にあたる
1兆円という金額の重さを、JSRの貸借対照表で測る。2026年3月末の親会社の所有者に帰属する持分は4,072億7,900万円なので、1兆円はその2.46倍になる。手元の現金及び現金同等物は829億7,300万円である。しかもこの純資産には、機構の買収で生じたのれん4,295億300万円のうち、減損を経て残った2,800億7,600万円が含まれる。のれんを除いた純資産は1,272億円で、1兆円との差は8,728億円に開く。買い手が株式に1兆円を払えば、最大でこの規模ののれんと無形資産を自社の貸借対照表に載せることになる (記者の試算)。JSRが2025年3月期に味わった減損の危険を、今度は買い手が引き受ける。
機構にとっての採算も計算できる。機構側が普通株に投じた額は5,347億6,500万円に3億円と120億円を足した5,470億6,500万円で、ファンド2本がJSR株の89.72%と6.75%、合わせて96.47%を持つ。残りは優先株を引き受けた2行が1.76%ずつである。報じられた1兆円が株式の対価を指すなら投下額の1.83倍になる。負債込みの企業価値を指すなら、純有利子負債3,433億円を引いた株式分は6,567億円で、1.20倍にとどまる。どちらの意味かは報じられていない。保有はまだ2年半で、再上場を待たずに1.2倍から1.8倍で回収できる選択肢が目の前にあることが、売却へ傾く理由になっている (記者の見立て)。
表1 1兆円という買収額の検算 (JSRは2026年3月末)
| 物差し | 金額 | 1兆円との関係 |
|---|---|---|
| 親会社帰属持分 | 4,072億7,900万円 | 2.46倍 |
| のれんを除いた純資産 | 1,272億円 | 差は8,728億円 |
| 機構側の普通株投下額 | 5,470億6,500万円 | 1.83倍 |
| 負債を引いた株式分 | 6,567億円 | 投下額の1.20倍 |
出所: JSR 有価証券報告書 (2025年3月期・2026年3月期)。倍率は記者が計算
全額を借入れで賄うと、三菱ケミカルグループのネットD/Eは1.38倍、三井化学は2.06倍になる
買い手の側を見る。ネットD/Eは純有利子負債を自己資本で割った倍率で、借金への依存度を示す。三菱ケミカルグループの2026年6月末は、純有利子負債1兆5,045億円、親会社所有者帰属持分1兆8,214億円で0.83倍。三井化学は純有利子負債6,586億円、親会社帰属持分8,732億円で0.75倍である。両社とも目安を0.8倍以下に置いている。
ここへ1兆円の借入れを足す。三菱ケミカルグループは1.38倍になり、JSRの純有利子負債3,433億円も連結すれば1.56倍に上がる。仮に5,000億円で済んでも1.10倍で、目安の内側には戻らない。三井化学はさらに重い。同社は2026年8月14日に米歯科材料のウルトラデントを9億ドルで買い終えたばかりで、1ドル160円で換算するとこれだけで0.92倍になる。そこへ1兆円を借りれば2.06倍、JSRの負債も連結すれば2.46倍である。1兆円は同社の自己資本8,732億円を上回る。買収後の純有利子負債を2026年3月期の営業キャッシュフロー、三菱ケミカルグループ4,363億円と三井化学2,130億円で割ると、5.7倍と7.8倍になる。
表2 1兆円を全額借入れで賄った場合の試算 (2026年6月末基準)
| 指標 | 三菱ケミカルG | 三井化学 |
|---|---|---|
| 純有利子負債 | 1兆5,045億円 | 6,586億円 |
| 自己資本 | 1兆8,214億円 | 8,732億円 |
| ネットD/E (現状) | 0.83倍 | 0.75倍 |
| 1兆円を借入れ | 1.38倍 | 2.06倍 |
| JSRの負債も連結 | 1.56倍 | 2.46倍 |
| 営業CFに対する倍率 | 5.7倍 | 7.8倍 |
出所: 両社の2027年3月期第1四半期決算資料、2026年3月期決算短信、JSR 有価証券報告書。三井化学の借入れ後はウルトラデント買収 (9億ドル、1ドル160円) を反映。試算は記者
三菱ケミカルグループには原資がある。田辺三菱製薬の売却は2025年7月1日に完了し、現金対価は5,368億円だった。ただし2026年3月期のうちに有利子負債を2,507億円返し、自己株式を500億円買っている。0.83倍という足元の数字は、その返済の結果である。加えて同社の非支配持分は主に日本酸素ホールディングスのもので、連結の数字ほど自由に動かせる資金は多くない。三井化学は2025〜2028年度の資金計画で、外部からの調達を約1,000億円と置いている。1兆円はその10倍にあたり、計画の外にある。
日本の化学会社が1兆円級の買収をどう賄ってきたかは、前例が教える。昭和電工 (現レゾナック・ホールディングス) は日立化成を総額約9,640億円で買ったとき、ノンリコースローン4,000億円、優先株2,750億円、普通株出資2,950億円を組み合わせた。日本ペイントホールディングスは2020年、1兆2,851億円の取得のうち1兆1,851億円を第三者割当増資で賄っている。全額を普通の借入れで済ませた例はない。今回も、優先株や増資、あるいは機構が一部の持ち分を残す共同出資の形が条件に入ってくる (記者の見立て)。報道が金額と並べて「詳細な条件」に触れているのは、そのためである。
2社が欲しいのはフォトレジストの顧客接点で、手持ちの半導体材料はJSRほど稼いでいない
フォトレジストは、半導体の回路を焼き付けるときにウエハーに塗る感光材である。JSR、東京応化工業、信越化学工業、住友化学、富士フイルムの日本5社で世界の9割を占め、東京応化工業は自社のシェアを24.7%と説明している。5社それぞれのシェアを出所つきで並べた数字は未取得である。JSRは極端紫外線を使う最先端の露光向けで、金属酸化物を使うレジストの米インプリアを2021年に事業価値5億1,400万ドルで完全子会社にしている。
三菱ケミカルグループの強みは、レジストの原料になるポリマーにある。ほかに合成石英、精密洗浄、高純度薬液を持つが、半導体関連の売上収益は2024年度で717億円、2029年度の目標でも1,050億円にとどまる。半導体材料のコア営業利益は2025年度に70〜80億円程度の見込みである。筑本学社長は、半導体メーカーに直接納める一次の供給先向けと、その手前の二次向けでは収益力に一桁の開きがあると述べている。原料を売る立場からレジストそのものを売る立場へ上がることが、同社にとっての買収の意味になる。
三井化学は、極端紫外線露光でマスクを保護する膜であるペリクルを、ASMLからの許諾を受けて岩国大竹工場で作っている。ICTソリューションの2026年3月期は売上収益2,795億円、コア営業利益369億円で、利益率は13.2%だった。JSRのデジタルソリューションの営業利益率は22.1%である。売上の規模は近くても、稼ぐ力はJSRが上にある。同じ露光工程の中で、ペリクルとレジストは顧客が重なる。
どちらの組み合わせにも筋は通る。ただ、筋が通ることと払えることは別である。JSRの売却を避けられないものにしているのは2031年に満期が来る3,763億円の借入れであり、その出口として示された1兆円超は、三菱ケミカルグループのネットD/Eを1.38倍へ、三井化学を2.06倍へ押し上げる。買い手が決まるときに見るべきは社名より資金の組み方で、増資や優先株、共同出資がどれだけ入るかが、既存の株主にとっての買収の値段になる。
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